冷暖自知 仏教の言葉で考える

今年のお盆の入りは、僧侶が家に来るのではなく
お寺で合同の読経となりました。

読経のあとの僧侶の言葉、いつも深イイ話です。
冷暖自知 仏教

法事など、お経をあげていただいたあとの、僧侶の言葉、
数日後には忘れてしまうのですが、その時は、
「いい話しだなぁ」と思うことがよくあります。

仏教の言葉を、実際の生活に例えて、仏教の言葉の意味を
説いてくれるのですが、まさしく、
仏教の言葉で考える、そんなお話です。

お経をあげるとは

なぜお経をあげるのか?

その答えはさまざまで、たくさんの解釈、意見があります。

ですので、私的意見になりますが、
お経とは、故人の供養のためにあり、故人に聞かせるせるものではない
と考えます。

人間としての知恵を唱えることで、故人を称賛する
これこそがお経という供養であると思います。

人としてのあり方を説くことで、
故人も、供養する側も清められる
そんな風に捉えています。

お経あとの僧侶の言葉も、故人を敬うとともに、
今後も生きていくためのサジェスチョンではないでしょうか。

冷暖自知

今日のお題は、冷暖自知という言葉でした。

暑い本堂で、タイムリーすぎる言葉。

この言葉、仏教の修行時に使う言葉だそうで、
意味は、文字通り、
「冷たさも暖かさも自分で知るしかない」

「すごく冷たい水」、と言われても、
その水がどれくらい冷たいかは、触れてみなければ分からない。

つまり、
「物事の全ては、自分で経験しなければ、会得できない」
ということです。

とても分かりやすい言葉ですが、
禅の真髄、生きるための基本と、されています。

日々の生活でもそうですね、
失敗を繰り返して、悪いところ、間違ったところが分かり、
ベストな方法を見つけていく。

最初からベストな方法を考えても、
大体の想像がついても、実践しなければ答えは出ない

子どもは、なんでも自分でやってみて、
痛いのか、危険なのかを、自分で経験し、会得していく。

多少危険なことでも、やってみないと危険かどうか、
分からないということです。
冷暖自知 仏教
冷房のない、真夏の本堂、
どれほど暑いかは行ってみなければ分からない、

身を持って体験してきました。